新緑

皇居へ その10

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さてさて、もう少し歩いていくと宮内庁が見えてきました。なかなか立派な建物です。1935年(昭和10年)に建設された建物だそうです。ガイドの男性がしきりに強調していたのが、この宮内庁の建物の3階が一時期宮殿として使われていたということでした。新年に天皇家族が出て来て手を振りながら、下のほうでは日の丸の旗を振っている姿をテレビなんかで見ることがありますが、戦後しばらくはこの2階のバルコニーのところに天皇家族が立って手を振っていたのだとか・・・・

「明治宮殿」ということばでググってみました。明治維新までは天皇は京都御所で生活していましたが東京に政府を移すことになり天皇も東京に引っ越すことになりました。東京に引っ越してきてまず住んだのが旧江戸城西の丸御殿で、そこが皇居となったわけですが1873年に女官の失火によって西の丸御殿が焼失してしまい、旧紀州藩邸であった青山御所が仮皇居となったんだそうです。

新しく明治宮殿が建ったのが1888年(明治21年)。石造りの建築として計画されたんだそうですが、いろいろ悶着があって、京都御所を模した和風の外観に、椅子やシャンデリアのある洋風の内装という和洋折衷の様式の木造建築となったんだそうです。神道の儀式はじめ天皇の政務をする場所、賓客を迎える広間、天皇の住居がいくつもつながった建物だったそうです。

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ところがこの建物も第二次世界大戦のときに戦火にあって燃えてしまったため、1968年(昭和43年)に現在の建物ができるまで宮内庁の建物の3階が宮殿として使われていたわけですが、天皇家族は御文庫(ごぶんこ)と呼ばれるところに住んでいたんだそうです。御文庫というのは、元々は天皇の防空壕として1942年(昭和17年)に建設されたもので砂を詰めた壁と床は厚さが2メートル以上もあり、1トンの爆弾にも耐えられるように設計されてたんだそうです。降伏すると決めた御前会議が開かれたのもこの場所だということです。
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皇居へ その9

今回の参観者は100名余でしたが、その半分くらいが修学旅行と思われる中学生、それ以外の4分の1が外国人の観光客、残りの4分の1が日本人の参観者だと思われました。統計によると皇居参観者の3割が70歳以上だということですが、少なくとも今回の参加者の顔ぶれからすると、かなり平均年齢は若い感じがしました。

さて皇居の中はけっこう静かですが、車もあんがい通っています。どういう種類の人たちが車で皇居の中に入ってくるのかはわかりませんが、想像するに、皇居の中で仕事をしている職員の車、宮内庁に用事があって車で乗り付けてくる人たち、皇居の出入り業者のような人たち、それから皇居の中で工事をしている庭師だとかの人たちもけっこういそうでした。車はもちろんですが、自転車もかなり活躍していましたよ。エコでいいですね。

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by customlegend  at 21:01 |  その他 |  comment (0)  |  trackback (0)  |  page top ↑

皇居へ その8

この富士見櫓の石垣の下にはバレーコートらしきものがありましたが、はたしてここでだれがプレイするのでしょう?まさか皇太子家族じゃあるまいし、宮内庁の職員か?それとも・・・・?まぁでも、道路特別会計で買ったという国土交通省のマッサージチェアよりはまだ健康的でいいですよね・・・

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左手には管理部車馬課の建物があり、ガソリンスタンドもありました。はたして皇居ではガソリンはいくらなんだろう?と思わずにはいられませんでした。車馬課ということですからどこかに馬のいるのでしょうが、この建物にはいなさそうでした。馬糞の臭いがしなかったですから。しかし皇族と馬というのは、おそらく切っても切れない関係にあるのでしょう。

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そう、最近某掲示板で知ったのですが、NHKでは天皇杯とか有馬記念だとかの競馬のニュースは流しても、同じ「競」仲間の競輪、競艇の報道は決してしないのだそうです。何故なんでしょうね。馬=天皇=NHKとつながってでもいるのでしょうか???
by customlegend  at 20:55 |  その他 |  comment (2)  |  trackback (0)  |  page top ↑

皇居へ その7

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もう少し歩いていくと右手の高台に富士見櫓が見えてきました。江戸時代にはこのような櫓が20基あったということですが、現存しているのは3基で、この富士見櫓はそのうちのひとつです。最初のものは加藤清正が1606年に建てたといわれていますが、現在の櫓は、明暦の大火の後1659年に再建されたものです。

明暦の大火というのは、1657年に丸山町本妙寺の和尚が因縁のある振袖を燃やした火が燃え広がり、江戸市中をはじめ江戸城も西の丸を残して焼失させてしまった大火で、死者も10万人以上になったというもの。関東大震災の死者数は公式発表14万2千人ということですが、ググってみると10万人余とも3万7千人ともあります。いずれにしても、明暦の大火の被害はかなりのものだったようです。

このとき燃えてしまった江戸城ですが、けっきょく幕府の財政難などの理由で再建されることなく、この富士見櫓が天守閣の代用とされたそうで、殿様はここから品川の海や富士山をながめたということです。
by customlegend  at 20:53 |  その他 |  comment (0)  |  trackback (0)  |  page top ↑

皇居へ その6

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まず最初に見えたのが「元枢密院」。1921年(大正10年)に造られたのだそうです。帝国議会議事堂(現:国会議事堂)建設のための試作として建てられたということですが、なんかあまりピンときませんでした。枢密院は大日本帝国憲法で天皇の最高諮問機関として設置されたということですが、私には軍国主義の中枢というイメージしかなく、おそらくここでアジア・太平洋戦争に突き進んでいく重要な会議がもたれたのではないかと思われ、呪われた建物のように思えてしまいました。枢密院は新憲法下では廃止され、その後この建物は最高裁判所仮庁舎や皇宮警察本部として使用されたとのことですが、今はどうも使われていなさそうでした。

少し歩くと左手に石垣がありました。そんなに立派な石垣とは思われませんでしたが、よく見てみるといくつかの石に紋章のようなものが刻んでありました。その昔、江戸城を築いたときに石の供出を命ぜられた大名が自分が提供したんだぞということで石に自分の紋章を刻ませて納品したものだということのようです。

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by customlegend  at 20:52 |  その他 |  comment (0)  |  trackback (0)  |  page top ↑
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とにかく自分でやれることは何でも自分でやってしまいたい。だから何でも自分でやれるようになるので、人からは器用な人だとうらやましがられるが自己評価は器用貧乏。有機食品の認証業務の仕事をしています。

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